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ロシアの絵画は、滅多に触れることが出来ないので、絶好のチャンスだった。
やはり「忘れえぬ女(わすれえぬひと)」(日本で命名)原題は「見知らぬ女」だった。
ポスターでは「あなたの視線が、離れない」
「ロシアのモナリザ」なんて描いているけど、
私にとっては、邦題のように"忘れえぬ女"というか、絵画の一つである。
ちょうど、トルストイが小説「アンナ・カレーニナ」を執筆中に
彼の家に同居して肖像画を描いていた。
アンナ・カレーニナの作品中に、イワン・クルムスコイの特徴を体現した
画家がアンナ・カレーニナを描く描写がある。
発表された当初は、女性が無蓋の馬車に乗っているという理由だけで
高級娼婦では無いかと酷評された。
ロシアでは、女性が馬車で移動するときは、馬車に覆いをかけて、
素顔をさらさないのが貴婦人の常識だったという。
しかし、多くの人が、この絵はアンナ・カレーニナを描いていると考えた。
トルストイの描くアンナ・カレーニナの特徴をこの絵は、供えている。
で、アンナ・カレーニナの本の表紙に使われたりしたのだ。
ついに鉄道自殺をするという、まさに悲劇のヒロインである。
彼女は、当時の社会の道徳的差別的な決まり事に挑戦した女性だった。
さて、この「忘れえぬ女」と向き合って見ると
冬の冷たい靄が立ちこめるサンクトペテルブルグのネフスキー通りに
幌を降ろした馬車に乗った全身黒ずくめ、黒のリボンの女が
背筋を伸ばして、私を静かに見下ろしている。
一見驕慢にも思えるが、よく見ると毅然としているのだと思えてきた。
さらによく見ると、目には涙を貯めている。
絵画の正面からでは無く、彼女の目線に正面から眺めたとき
向かって鼻の左側に一点ひかるものがある。
私には、それは涙の粒に見えた。
この人は、泣いているのだ!
彼女は、社会の道徳的差別的な決まり事に挑戦し、死を決意した女性なのだと。
馬車にのって、死の世界にりんとして出発しようとしているひとの姿なのだと思う。
アンナ・カレーニナもそういう女性の一人であるが、イワン・クラムスコイが
この絵について「見知らぬ女」以外に何も語らなかった意味も理解できた。
だからこそ、また忘れえぬ女なのだと思う。
哲学の道で哲学!? [心の風景]
2017年1月10日(火)
今日は、この月にしては、比較的暖かな日である。
天気に誘われて、哲学をしに哲学の道へ出かけた。
どういう訳か、道には人気が無い。
別にさみしいわけではなく、これぞ哲学するにふさわしい。
季節柄、色気がないのではと思っていたが、とんでもない。
たわわに実った南天の実が出迎えてくれた。
山茶花も誇らしく咲き誇っている。
雪が降っているかのような低木もあった。
さらには、ロウバイも花盛りである。
さすが正月で門松も見受けられた。
門松というとこんなのをイメージする人が多いと思うけど
本来は、こちらなのだ。
平安の貴族達が好んだ小松引きと言う行事で持ち帰った
「子の日の松」を長寿祈願のため愛好する習慣から変遷したもので、
現在も関西の旧家などでは、「根引きの松」といって飾られている。
松は、神が宿る縁起の良い木で、古来から愛用された。
思い出して欲しい。
能舞台の背には、必ず大きな松の絵が描かれているし
庭園では、必ずと言って良いほど松が植えられている。
門松の意味は、待つが転じて松となった。
「門で新年の福を待つ」の意味であるというのは、
私の勝手な意味付けですが、
まあ、そういう気持ちで新年を祝いましょう。(笑)
ところで、哲学の道には、お地蔵さんがいらっしゃるのだが
その横に鍵の掛かった賽銭箱がある。
なんと念入りにも、賽銭箱に雨が入らないようにふたがしてある。
そもそも賽銭箱に鍵がかけてあるのには、
私は納得できないのである。
こちらのお地蔵さんには、賽銭箱はない。
木彫りの可愛い作品である。
もともとは、社寺やお地蔵さんの前に賽銭箱など無かった。
お供えは、五穀だったのだ。
しかも、お供えした物は、寺社などの所有物ではなく、
神や仏様のものであり、そのお下がりを飢えた人がいただいていた。
五穀とは古事記では、稲・麦・粟・大豆・小豆、
日本書紀では、稲・麦・粟・稗・豆となっている。
それがやがて米となり、ご飯となり、貨幣が普及すると
お金になった。
でも、お供えした物を誰がどのようにしようが良かったのだ。
飢えた方々がそれをいただくことで、意味が満たされたのである。
それは、今流にいえば、慈善事業、福祉事業ににたとえられる。
他の例でいえば、水上勉の「はなれ瞽女おりん」ではないが
瞽女だって立派な福祉事業だった。
盲目の少女を預かり、芸を教え、農閑期に村々を回り
門付けをして、彼女らの生計をまかなっていたのである。
そのようなことでもなければ、盲目の少女は生きていくことさえ困難だった。
昔、お地蔵さんに供えられたおにぎりを涙と共にいただいた人がいたはず。
現代の「こども食堂」の役割を果たしていたと思う。
いにしえの庶民は、「お供え」という形式で助け合っていたのだと思う。
日本人の美しい心意気である。
美しい日本というなら、こうありたいものである。
幸い、わが生家の寺院では、賽銭箱に鍵はない。
いまでも、それをたよりに来る人がいる。
日々のお金に困っているという人がいるのだ。
でも、彼らは、全部持って行かないのだ。
なにがしかのお金を残してある。
いただく方にも、美しい心が生きているのだ。
日本国憲法には次のような条項がある。
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の
向上及び増進に努めなければならない。
賽銭ではなく、国の制度として、貧しき人を救うことは、
国民全体の心を豊かにしてくれるのではないだろうかと思う。
夫婦の愛は [心の風景]
2016年7月29日
偶然だが、ある論文を読む機会を得た。
タイトルは、「夫婦の愛情と個別化志向からみた夫婦関係-中高年期夫婦を対象に-」というものである。
この論文は、文京学院大学人間学部研究紀要Vol.14, pp.1 ~ 13, 2013.3(研究者 伊藤裕子・相良順子さん)に
発表されたものであるが
この調査の結果次のことが判明したという。
「本研究は,中高年期の夫婦を対象に,個別化志向と夫婦の愛情の2 軸による4 型の夫婦関係にどのような違いがみられるかを検討した.40 代から70 代の配偶者のいる男女888 名を対象に,夫婦の相互性,関係満足度,離婚の意思,低勢力認知,分業観,精神的健康が尋ねられた.
対象者は,愛情が高く個別化志向の強い自立型,愛情は高いが個別化志向の弱い共同型,愛情・個別化志向とも低い規範型,愛情は低く個別化志向の高い脱結婚型に分類された.その結果,自立型と共同型は多くの点で共通し,夫婦関係の良好さ,ならびに精神的・身体的健康の高さが見い出された.それらを規定しているのは夫婦間の愛情だった.なお,この両型を異ならせているのは性別役割分業観だった.一方,愛情が少ない点で共通する規範型と脱結婚型は,前者はまだ夫婦関係を形として保っているものの,後者は良好でない夫婦間の摩擦を避けるために個別化を志向していると考えられた.これまで指摘されてきた個別化(個人化)を志向する者における夫婦関係の非良好性は,自立型と脱結婚型が混在したために生じたものだといえよう.」
この論文で、最も印象的だったのは、「規範型」と「脱離婚型」の夫婦には、健康状態が悪いという有意差が
認められたと言うことである。
すなわち、夫婦関係が悪いことが健康にも現れているというのである。
逆に愛情のあふれた夫婦は、若々しく見えると言われているが、意外と正しい判断かも知れない。
もう一つ、びっくりしたのは、調査対象の「50 代の女性では,夫と一緒の墓に入ることを望まず,
別室で就寝する者が2 ~ 3 割に上るという」というから驚きである。
そんならなんで結婚したんだと思わず言いたくなるのであるが、
そのような人でも結婚するときは、熱いものがあったはずだと思うのは、私だけだろうか?
この論文からも感じるのであるが、夫婦円満のバロメーターは、一言で言えば、
夫婦相互の日常会話の量ではかれるのではないかということである。
ある人が「夫婦円満の秘訣ベスト10」というものを発表してるが、それによると
1位 会話
2位 思いやり
3位 感謝すること
4位 おいしい食事
5位 干渉しすぎない
6位 相手を尊敬・尊重する
7位 セックス
8位 スキンシップ
9位 たまに喧嘩をする
10位 ペットを飼う(但し依存してしまえば逆効果)
だそうだ。
ここでも会話が一番に来ている。
しかし、これらは夫婦生活を円満にするノウハウかも知れないが、
そこに愛情というものが基本になければ、仮面の夫婦ということになるのではないだろうか?
この愛情についてですが、愛情は「あるもの」と思い込んでいる人がいるように思う。
愛情が「あるもの」と思い込んで夫婦生活に入る人は、破綻するケースが多いのではないかと思う。
私は愛情は「あるもの」「与えられるもの」というものではなく
それは「生まれるもの」「創るもの」であると思う者の一人である。
愛情は、ある人に出会うことによって生まれ、そしてその人と共に育てていくものであるといことを
間違えるといつか破綻するのである。
それ故に愛情がある夫婦がいつの間にか破綻し離婚することになり、
愛とは関係なく政略結婚などで結婚した夫婦が愛を育てて、
愛情あふれる夫婦として添い遂げる場合も出てくるのだ。
では、愛とは何を温床にして生まれるのであろうか?
それは自己存在の意味と深く結びついていると思う。
すなわちその人の人生観なり、生き方を温床にしてると思う。
人はそれぞれ違う。まったく同じ人間などいるはずがない。
が、人生観や生き方は、その人の存在そのもので有り、それは共有することは出来るのある。
この共有こそ、愛の正体ではないかと思う。
その論拠の一つとして、二人のシンガーソングライターの歌を示したいと思う。
一つは、南こうせつ氏の「赤ちょうちん」
https://www.youtube.com/watch?v=kLoHLh56z5k
愛する人と別れたとき彼女が感じたことは
「生きてることは、ただそれだけで哀しいことだと知りました」と言うことである。
一方、松山千春氏の「炎」
https://www.youtube.com/watch?v=JbcJxZITB5M
愛する人を得た彼女は
「貴方にめぐり逢えて、悔いなどないわ、生まれてきたことさえ、幸せと思う」のだ。
この二人に共通するのは、なにか?
それは自己存在の評価です。
このことは、自分の存在価値を特別に相手が愛おしく認めてくれているかどうか、
特別な人として自分を必要としてるかどうかということであろう。
自分と同じ人生観や生き方を共有できる人から、生きていく上で必要とされているということは、
人として最高の人生を得たといえるのではないだろうか!