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大震災の中で [心の風景]

能登半島の大震災が発生して、はや1ヶ月半すぎたけど
未だに断水など復旧が遅々としているように思えてなりません。
この寒さの中で耐えている避難者の方々を思うと人ごとではありません。
私は「新潟県中越地震」での「山古志村」の人々の対応を思い出します。
2004年10月23日17時56分、地震発生
以下はウエザーニュースからの引用ですが簡単によくまとめられているので借用です。
  『震源に近い山古志村は震度6強を記録し、さらに断続的な余震に襲われました。
  人口約2100人の村は死者5人、負傷者25人、全壊622棟の被害を受け、
  村内では地滑り329か所が発生して道路は寸断され、村は孤立しました。
  震災から2日後の10月25日、山古志村は避難勧告を避難指示に切り替え、
  全村民はヘリコプターで長岡市内の8か所の避難所に運ばれました。
  当初はヘリから降りた順に避難所に入りましたが、10日後に村内にある14の集落ごとに
  組み直し、日頃の人間関係のつながりをくずさず、集落単位にしたことで
  村民に安心感が出てきました。
  当時の長島忠美村長が「帰ろう山古志へ」というキャッチフレーズを打ち出しました。
  避難所から移った仮設住宅でも集落単位で入居し、そこに村役場や農協の店舗、
  郵便局も移ってきて村民たちの帰村への思いが募ったといいます。
   震災から半年後の2005年4月、山古志村は長岡市に編入合併されました。
  旧村民の「帰ろう山古志へ」という願いは変わりませんでした。
  長岡市郊外の仮設住宅で暮らす主婦たちは、近隣の農地を借りて
  「畑の学校」という営農グループを立ち上げ、地場野菜を生産して販売したり、
  郷土料理をつくりました。「いきがい健康農園」という市民農園をつくり、
  営農も始めた人たちもいました。
  仮設住宅でも村で暮らしていたときのように生活することで、
  帰村に向けて営農意欲を維持することができたのです
  震災から3年2か月後の2007年12月、旧山古志村で「帰村式」が行われました。
  地震発生時の7割にとどまりますが、全集落の約1400人が帰村しました。』
地域社会の連帯の姿を教えられました。
「帰ろう 山古志へ」のスローガンには、目頭が熱くなる思いがしました。
当時の村長さんの指導力にも感動しました。
能登半島のみなさんも力を合わせ、故郷の復興をみごと成し遂げてほしい。
さて、私の日常ですが、ささやかなことが楽しみになりました。
庭の紅梅が咲きました。
ほとんど日の当たらない場所なのにしっかり花を咲かせて元気です。
そばでは千両がの実も。
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午後のテーブルのスタンドが日の光を受けて、まるで点灯してるような穏やかな感じ!

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散歩に出ると出会うのは、沢山の実を未だに付けたマユミ

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疎水の土手には、ひっそりとリュウノヒゲ

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華やかなのはひとり山茶花

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日本画のような写真が撮れた。

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店頭では、雀が餌を待ちかねて寄り集まっている。

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散歩道では、小さな男の子がペタルのない自転車に乗り、大はしゃぎ!

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まるでブラウニングの詩ではないけど「世は事もなし」という思いがします。
これが一番の幸せなのかもしれません。
世の中、戦争や災害で塗炭の苦しみの中にいるときに
方や、のどかな日常生活を楽しんでいるということに、申し訳ない気分です。
世界中のみんなが、のどかで平和な生活が出来ることを願ってやみません。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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