『高齢者天国』は、高齢者達の事をシリーズとして、書いていきたいと思います。



お盆前の炎天下の庭で

荒井さんの自動車工場は、県道沿いにあるのだが、なぜか表札は『福沢諭吉』となっている。

県道沿いと言っても、田舎の県道で人家も点々と見えるだけの、のどかな田園風景の広がる地域なのだ。

荒井さんは今年で六十五歳になる。自宅は工場から少し離れて県道から入ったところにある。

自宅の表札は『坂本龍馬』であり、荒井の表札はないのだ。

誰が聞いても彼は、笑っているだけでその理由を口にしない。

が、荒井さん宛の郵便物は、ちゃんと配達されるし、生活になんの障害もないのである。

つまり、誰も表札を信じる人などいないのである。もちろんお寺さんも法事には、ちゃんとやってくる。

そして、今日がその日である。お盆前の炎天下の日である。

坊さんも見えて、法事が終わったばかりの頃、「こんにちは!」と元気な声がして、

玄関に頭髪がすっかり後退した赤ら顔の老人が立っていた。

隣の集落に住んでいる岡田さんである。岡田さんも今年で七十六歳である。

「軽トラの調子が悪いので修理してもらいたいのだが」という。

「車は動くのかい?」

「まあ、なんとか。」

「じゃあ、昼から持ってきたら見てあげる」と荒井さんが二つ返事で引き受けると、

岡田さんは、よろしく頼みますといって、帰って行った。

暫くして、坊さんが帰るのを見送りに庭に出ていると、岡田さんがまた、汗を拭きながらやって来た。

「どうしたん?」

岡田さんは、バイクを忘れたというのだ。

よく見ると坊さんの車の横に確かにバイクがある。

さっき来た時は、バイクに乗って来たのに、帰るときは、そのことを忘れてしまったいう。

途中で思い出して、引き返してきたのである。荒井さんも坊さんも唖然。

岡田さんは、晴々とした顔でバイクに乗って帰って行った。

それを見送っていた荒井さんが「午後の約束忘れてないだろうなあ?」とつぶやいた。

「自分の家をわすれてないっでしょうね。」と荒井さんの奥様も心配が顔。

坊さんも帰って行った。

庭では、吾亦紅が風に揺らいでいた。

が、蝉の声は賑やかだった。