哲学の道を妻と語らいながら散歩しながら、ふと感じることなのだが、
生き生きとした充実感のある生活を送るには、
どうしたら良いのだろう。
幸せな人生ってどんな事なんだろう。
自分は、そんな生活が出来ているのであろうか?

夫婦で楽しく語らいながら、春の日差しに抱かれて散歩できること自体が
そもそも幸せなことではないだろうかなんて話し合う。
そう思うとなんだか急に「幸せ」を発見したような気分になった。
そんな思いで、見渡すと、
幸せは沢山身近に満ちているような気がしてきた。

でも、なんだか物足りない感も残る。
生き生きとした充実感は、幸せとは、また違ったもののように思えるのだ。
振り返って、考えてみる。

自分が生き生きとした充実感を味わったのは、どんな時だったろうか?
それは、何かに一生懸命になって頑張っているときのようだ。
それも自分のためではなく、家族や友人のため、
社会のために頑張っているときに思える。
それも、やむなくではなく、自分の責務として、自分の責任として
頑張っているときだ。
いわば、自らの意思で責任を取って行動しているときである。

「責任を取る」と云うことは、
一般にはなにか良くないことのような印象があるが、
本当にそうだろうかとも思う。

実は「責任を取る」ということは、素晴らしい生き方ではないかと思う。
自分で責任をとることで、結果がどんなに思わしくなかっても
愚痴ったり、誰かや、なにかの性にすることもなく、次へのエネルギーとなると思う。

身近な事で云えば、妻と幸せな家庭を築こうと結婚したことに責任を取る。
子育てに責任を負う。
友人に対して友人としても責任を持つ。
町内の役員に今年はなったけど、役員としての責任を全うする。
大きく云えば、日本国民として、日本の民主主義に責任を負う。
父親たちの時代に行った侵略戦争に子供として責任を引き受ける。

そういう風に責任を積極的に引き受けることによって、
今自分がなすべき事が見えてくるし、
行動する指針が明らかになる。

真摯に真正面から物事に自らの要求として取り組めるのではないだろうか。
その行動こそが、
生き生きとした充実感ある生活を与えてくれるような気がする。
私の考えは、間違っているだろうか?

ところで、夕暮れ時の哲学の道の桜は、きれいである。
昼間の写真は、多くの人が撮影しているけど、夕日の中も桜はあまり無いのでは・・・・

















疎水の水面に映える夕日の残照も趣があります。



今日も一日良い日でありました!