2016年6月2日

良い天気のさそわれて、明日香村に出かけた。
まずは、奈良県立万葉文化館に行った。







館内のカフェで昼食を取り、地下の展示室へ。
いにしえの人々の生活などが人形などを使って展示されている。









万葉劇場なるものがあり、入ってみた。



本日上演は額田王
電動人形が舞台に現れ、音楽と照明を使っての上演である。

額田王と言えば、大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生み
後に天武天皇の兄である中大兄皇子(天智天皇)に寵愛されたという人である。

なんかこの三人の関係はややこしい。
近江京の近くの蒲生野で天智帝主催の狩が行われたときの有名な彼女の歌
 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1-20)
これに対して大海人皇子の返歌
 紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも(巻1-21)
なんて言うもんだから、兄貴は彼を高野山へ幽閉した。
大海人皇子は、自分の妻を兄貴のとられて悔しいので
兄貴の死後、壬申の乱を起こして、天皇になちゃったてな小説が出来そうである。

まあそれはともかく
万葉文化館には「万葉こども賞コンクール作品集」という冊子が無料で配布されていた。
これは、朝日新聞と当館が共催で行っているものだとか。



これを読んでいた妻がすごいのがあるというので私も読んでみた。

萬葉集の防人(さきもり)の歌の感想文である。
防人は、663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いで
唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から
九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。

 韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして(巻20-4401)
「韓衣(からころも)の裾に取りすがり泣く子供を残してきてしまった、
母親も(しんでしまって)いないのに」
現在流にいえば、防人として徴兵された兵士が、行かないでと泣きすがる
母親も死んでいない子供だけを残して任地に行かざるを得なかった悲しみの歌でる。

この歌についても中学三年生の感想文がある。
原文を次に掲載したので読んでみてください。



今の日本の状況と重ねて考えると彼の思いは、今も大事なことだと思う。
戦争法といわれる法律ができ、日本人が戦争に荷担する事になりそうな時
この感想文は、戦争法に反対し闘う市民の姿を後押していると思うのである。
私としては、若者の純な心に触れた思いがする。

万葉文化館を後にして、石舞台古墳へ出かけた。
東京から来たという修学旅行生に出会った。













こんな巨大な石をどこからどうやって運んできたのだろうか?
重機もない時代なので、みんな人力で作ったのであろうが
大変な重労働ではなかったかと思う。

駐車場に帰ると面白い車が入ってきた。
一人乗りの電動自動車である。
で、運転してきた彼に尋ねると、なんとレンタカーだという。
駅前で借りてきたと言うことで、ちょこっと運転もして見せてくれた。
彼は一人で観光してるのだろうか、石舞台古墳の方に出かけていった。



私は、棚田の風景を眺めながら、高松塚壁画館を探して回った。









ところが、私のカーナビは、寝ぼけているのかとんでもない所に案内してくれた。
なんと、山道に入り、だんだん道が狭くなり、不安になった。
たまたま農作業をしている人に出会い尋ねたら、この道は行き止まりで、
Uターンも出来ないというのだ。
で、近くの民家の庭でUターンをさせてもらって、やっと抜け出した。
トホホ・・・・・

同じような所をぐるぐる回りながらも、やっと発見でした。
駐車場からテクテク歩いていると、ユリとヤマボウシ花に出会った。







そこから、岡を上り、降った所に高松塚壁画館があった。





壁画と遺留品、それから盗掘の様を再現したレプリカを観ることが出来た。

次は亀石を探して、またまた、放浪。



やっと民家のそばにある亀石発見。
これって、亀じゃなくて、カエルじゃないっと思うのだが・・・・・



言い伝えによれば、奈良盆地一帯が湖であった頃、
対岸の当麻のヘビと川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、
川原あたりは干上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまった。
亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って亀の供養をしたという。
さらにもう一つ、亀石は、以前は北を向き、次に東を向いたと言う。
そして、今は南西を向いているが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、
奈良盆地は一円泥の海となると伝えがあるという。
それが本当なら、まもなく西に向いてしまうのではと
余計な心配をしながら帰路についた。