正月も私は、難病で医者通い、故郷には帰れませんでした。

従って、コロナ以来ずーっとご無沙汰しています。

今日、実家で法事があり、息子が参加しました。


で、実家でもコロナ以来初めての法事で、小学校以来の同級生も参加していたという。

息子に彼が私を「無理矢理でも連れてこいや、同窓会したいんだ。」とせがんだという。

「そんな横着なこというのは誰だ。」と私が言うと

「名前は聞いていないので誰かはわからない」と息子。

でも考えてみれば、私の同級生で今もそんな口聞いているのは一人しかいない。


学校時代の彼は、細身の色白の優しい友達だった。

でも、家庭の度重なる不幸に合い、辛苦の苦労を強いられ、

一時は極道の道にも入り、がらりと人が変わってしまったようだ。

それでも、わたしにたいしては、変わらぬ優しさでつきあってくれている。

私にとっては、本当によい同級生なのだ。


私に暮らした隣町は、滝廉太郎の「荒城の月」で有名な町だ。

今でもJRの竹田駅では、列車が発着するたびに、ホームに荒城の月の曲が流れる。

滝廉太郎がここで暮らした折、よく訪れたという岡城跡が曲の着想になったといわれている。




しかし、荒城の月の詩は、土井晩翠が、青葉城をモチーフに作詞したといわれています。


その岡城跡のすぐ麓に私の通った高校があります。

私も岡城跡に高校時代親しんだ一人です。

何気なく口ずさむこの歌は、本当はすごい歌なのです。

哀調をおびたメロディと歌詞が特徴で

七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲です。

特に、日本で作曲された初めての西洋音楽の歌曲とされ、日本の歴史上重要な曲です。

さらに、ベルギーでは、この「荒城の月」が賛美歌に選ばれたという国際的な曲です。


私は、この曲の3番の歌詞が一番好きです。


  「今 荒城の 夜半の月

   かわらぬ光 誰がためぞ

   垣に残るは ただかづら 

   松にうたうは ただ嵐」





(紅葉の岡城跡)




今、故郷では私の通った小学校も中学校も跡形もなく消えてしまいました。


子供時代の懐かしい思い出は、心の中と同級生だけです。



京都の友達は、京都で生まれ、そのまま今も生家で暮らしています。


近くに沢山の竹馬の友がいて、今も交流が続いている姿を見ると


うらやましくさえ感じます。


そんなときには、余計に故郷が恋しく思われるのです。



歳のせいでもあるかもしれないが、昨今、望郷も思いが膨らんできます。



(大手門付近から眼下の大野川を望む)




岡城跡は、私の青春の眠るところです。





最後まで、読んでくださり、ありがとうございます!