2016年6月5日

人が生きると言うことは、齢を重ねると言うことだが
沢山重ねると、最初の方が懐かしく思えてくるのではないでしょうか?
そして、賑やかさよりも、おだやかさを求めるような気がするのだが・・・
そして、重ねてきたものが、移ろい行く様を見て
寂しい思いに駆り立てられるのである。

その移ろい行くものをとどめようと取り組んでいる人もいる。
水彩画家の薮田正義氏もその一人である。
彼の水彩スケッチ展が、滋賀の「唐崎ギャラリー」で行われていいたので
友人と出かけた。





久し振りの再会に彼は、大歓迎してくれた。
彼は、主に滋賀の田園風景などを長年描いてきた。





今では、描かれた風景が、
まったく変わってしまっている所が増えているという。
失われゆく懐かしい風景をとどめようと彼は描き続けて
今では、数百枚に達している。

彼の水彩画は、下記の電子本で見ることが出来ます。
http://ebook.hikobae.biz/boosan_ebook.html

私も懐かしい思いをもう一度と422号線を信楽の朝宮に向かった。



ところが、道を間違えて、家もなければ、人もいない、車さえ
出会わない山道に迷い込んでしまった。

やっと茶畑の谷間に出たところで、ここが522号線だとわかった。
山道を下ると、うっそうとした杉林の路傍に
岩谷山仙禅寺という寺に出くわした。
由緒ある寺らしいが、勿論人気などない。
よく見ると、この寺が朝宮茶発祥の地だという。
なんだか不思議な気がした。







で、なんとか朝宮にたどり着き、
昔家族でよく来た「スイスアルピナ」で一休みしようと思ったのであるが
今日は、休業日らしく、閉店していた。
川向かいの動物たちの姿もない。

ちょっと寂しい思いで信楽にひき返してティータイム。
朝宮茶をいただいた。

さて今度こそはと、422号線を立木観音に向けて走る。
今は、当時と違って、道が新しく出来ているが、
やはり旧道が懐かしい。

あの頃、旧道を走っていると、テレビで放映されていた
「日本昔ばなし」というアニメに出てくる民家そっくりの家があった。
いつも横目で眺めていたが、
今日はそれを見つけて立ち寄ってみようと探していたら
あった!!!!



で早速旧道に入る。
小さな山間の集落である。
まったく人気がないが、人の代わりに人形が迎えてくれた。
寂しいから、せめて人形でもと考えたのであろうか。
それも若者の人形で。
なんとなく、住民の気持ちがわかるような気がする。







橋のたもとには、登山道の案内版があった。



例の家は、その集落から川を隔てて、ポツンとある一軒屋だ
今では、瓦葺きとなり、立派な家紋が屋根に掲げられている。



その家は、木々に囲まれ、人の住んでる気配はない。
すでに空き家になっているようだ。



母屋の横の家屋は、一方は木々に抱かれ
もう一方は、蔓覆われてしまったいる。





庭には、草が生い茂り、人の足跡もない。
ただ、ツルニチニチソウが、咲き誇るのみである。



この花の花言葉は、「優しい思い出・生涯の友情・幼馴染み」だそうだ。
なんだか、この風景にぴったりの花言葉である。
ここも限界集落に近づいてるのではと思う。

最近、新しいものが価値があり、
旧いものはダメなように思う風潮を感じるが
それは、便利さという意味では、確かにそうだと思うが
私は旧いものがダメとは到底思えないのである。

旧いものがダメなら、古都京都もだめな町だろうか?
世界遺産は、ダメ遺産とでもいうのだろうか?
旧いと言うことは、歴史を持っているということではなかろうか。

人類の歴史、日本人の歴史、そして自らの祖先の歴史
もしも、そういうものがない人生を考えることが出来たら
それは、殺伐としたものではなかろうかと思う。

逆に歴史は、私達の人生を豊にしてくれ、
自分たちに誇りを与えてくれるものではなかろうか。
それは、今生きている人たちへの祖先からの贈り物ではないだろうか!

そう考えると、苦い歴史ではなく、後世に誇れる歴史を作るために
今、私達は生きることが求められているように感じる。
そして、そのことが、後に続く人たちへの私達の贈り物であると思うのだ。