今日は、哲学の道を歩きながら、花を眺め、思っていたことを書いてみます。

私のカミングアウトのひとつです。


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          衝撃の1冊


 私は、僧侶の父を持ち、父が仏教とフロイトの精神分析学を融合しようと

試みている姿を見ながら、複雑な家庭で、悩み多き青春時代を過ごしました。

 中学に進学したころから、ゲーテ、ヘッセ、芥川の作品やフロイト、ユングの著書

を読みあさり、人生って何だ!生きる意味とはなんだということを自分なりに徹底的

に問い詰めてきました。

必要な本は、すべて父の本棚から得ました。

 

しかし、当時は、「人生のゆるぎない真実は、人は日々死に向かって進んでおり、

何人もこの真実から逃れることは出来ない。すなわち人は死ぬために生きている。」

という絶望的な結論しか持ち得なかったのです。

 

親しかった高校の級友は、卒業式の翌日自殺してしまいました。

私は、その時、先を越されたと感じました。

 

私が自殺できなかった理由は、「一度自殺したら、2度と、あのきれいな夕焼けと

草原を見ることが出来ない」というしごく単純なことでした。

そして、高校を卒業し、生家をでて、東京駒場の叔父の家に下宿し、駿台予備校に

通っていたある晩秋の夕方、机に向かい、窓の外の紅葉した庭木の葉が風で飛ばさ

れていくのを眺めながら、生きることの空しさに絶望し、ただただ泣きました。

涙が止まらなかった。

生まれてこなければ良かったと思いました。

その後、長い間死ぬことだけを考えて生きてきた。

「自殺」を恋していたといっても過言ではなかった。

 

 そんな私の考えを変え、生きる意味を教えてくれたのは、ある日偶然手にした

V・E・フランクルの著書「それでも人生にイエスと言う」だった。

 

彼が云うには

「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っているのです。

つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。

人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。

私たちは問われている存在なのです。」(「それでも人生にイエスと言う」p27)

「生きている意味がはっきりと問題視されるとき、すでに生きている意味がどこか

疑わしいものになってしまっています。

けれども、人間として生きている意味を疑うと、絶望にいたるのは簡単です。

この絶望は、自殺を決断するという形で、私たちの前に立ちあらわれます。」

(同前述p19)という言葉だった。

 

フランクルのこの言葉は、私にとって大きな衝撃だった。

本を持つ手が震え、胸が高鳴った。

目からうろこという言葉は、このときのために用意されたもののように感じました。

自分の人生の答は、外にあるのではなく、自分の中に、自分の責任の一部として

自分で作れというのだ。

何故か私には、非常に嬉しかった。

夢中でフランクルの著書を買い集め読みふけりました。

 

 私はフランクルの言うように絶望はしたけど自殺はしませんでした。

フランク流にいえば、その時の私の人生には「きれいな夕焼けと草原を眺めることが

できる」という意味があったのだと思う。

 フランクルに出会ってからの私は、自分の死を正面に見据えながら、

かけがえのない時間を大切に生きて来ました。



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ローセル (ベニアオイ)



沿道のお家の庭には、かわいいカエル君が愛嬌を振りまいていたよ。







哲学の道には、朝日が降り注ぎ、のどかです。





吾亦紅の季節になりました。




ヒガンバナ(曼珠沙華)も




真弓が、実を付けてきた。





緑の葉をかき分けてヒオオギズイセンが顔を出してきました。



萩の花も頑張って咲いています。



小さくきれいなイモカタバミが一輪!



ザクロの実も赤く実り始めました。




弥勒院の前では、ご婦人と幼児が朝日の中で落ち葉掃きに精出しています。



花は季節を、人は営みを伝えてきます。

この平和な姿が、何時までも続いて欲しいと願ってやみません。

戦争が最大の犯罪と思います。

理由の如何に関わらす、戦争には反対です。