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故郷の山河-8 [故郷]
別府市 内成の棚田
別府と言えば一般的には温泉と地獄巡りで有名ですが、その別府市の西の外れの
山間部に内成という地域があります。
そこには、日本の棚田100選に加えられている棚田があります。
別府市街地からだと、国道10号線から富士見通りに入り、山手に向かって走る。
目標は、大分自動車道別府インター方面へ登り詰めたTの字交差点を湯布院方面に向かう。
志高湖の看板のある東山交差点を左折、志高湖の入り口を右折して、リンゴ園に向かう。
リンゴ園から「別府の森ゴルフクラブ」の中の道路を通り抜けて進むと
「きのこの里」というログハウスの宿泊施設がある。
ここは温泉もある。夜空もきれい!キャンプも出来る!いいところ!
そこを左折して、山道を進むと目的の内成の棚田が見えてくる。
別府から車で約30分で行けるのだ。
それでは内成地区に行ってみよう。
内成に入る前は、こんな感じの谷間を走る。
山の中の坂道をどんどん登っていくと
上記案内版で云えば、案内地図の下部の「かいがけ」、岩水、梶原から「太郎丸」に向かう。
急勾配の道が続く
太郎丸に碑が建っていた。
来し方を振り返る
月見台という展望台へ向かう。
この月見台に行くのに死ぬかと思った。
何しろ、道が狭い!
展望台に地元の人がいて、「大丈夫だから来い」と大きく手招きをしてくれるのだが
道は坂道で、左側(山手)は、用水路、右は何もない土手、タイヤはぎりぎり!
おっかなびっくりで時速10km以下でソロソロ亀さんなみ。
もしも踏みはずしたら、谷間に転げ落ちるか、用水路にはまって身動きできなくなるのだ。
うっかり入った道だけど、バックして帰るのは、展望台に行くより不可能な気がした。
地元の方は、熱心に手招きするので、もう行くしかない!
展望台にたどり着き、地元の人の笑顔に触れて、救われた気がした。
展望台は、少し広くて、車を回すだけのスペースがあった。
正面の集落が、碑のあった太郎丸地域!
太郎丸集落のズームアップ
確かに展望台からの眺めは、最高である。
が、車で二度とこの展望台には行きたくない。手前の道で、車を降りて歩くに限ります!!!
お勧めお宿
きのこの里
故郷の山河-7 [故郷]
愛の園生(あいのそのう)
朝倉文夫記念公園
朝倉文夫記念公園は、田園風景の続く山奥にある。
こんな山奥に本当にそのようなものがあるのだろうかと疑いたくなるのであるが
この標識に出合、一安心。
公園は、よく整備されていて、あちこちに芸術家達の作品が設置されている。
でも、これらは、朝倉文夫の作品ではありません。
朝倉文夫の作品は、こちら記念館野中にあります。
山の斜面沿って伸びた建物は、三層構造になっている。
朝倉 文夫 Asakura Fumio (1883~1964)
明治16年3月1日、上井田村(現朝地町)池在に渡辺要蔵の三男として生まれました。
9歳のとき養子として朝倉宗家を継ぎ、尋常小学校を卒業。19歳のとき旧制竹田中学校を中退して上京しました。
明治36年、東京美術学校彫刻選科に入学。在学中に1200点もの作品を制作し、明治40年、首席で卒業。
その後は彫刻界の重鎮として活躍。
大正8年に帝展審査員となったのを皮切りに、同10年に東京美術学校教授、同13年に帝国美術院会員となり、
昭和23年には文化勲章を授与されています。
その間、「墓守」など数多くの傑作を生み、驚異的な質と量の作品を残し
「自然主義的写実主義」といわれる作風を確立しました。
朝倉文夫は晩年、自身の作風を確立するうえで大きな影響を受けたふるさとの美しい自然の中に作品を展示保存
することに情熱を注ぎ、昭和36(1961)年、生家周辺に梅園と記念館を配した理想的な芸術鑑賞空間の建設を
計画します。
そして、その芸術鑑賞空間の名前を「愛の園生」(あいのそのう)と名づけ、自費を投じて用地の購入、
造成など事業に取りかかりましたが、昭和39(1964)年にこころざし半ばにして亡くなりました。
建設計画は中断し、購入済みの用地は当時の朝地町に寄贈されました。
昭和48(1973)年、朝地町は朝倉の遺志を受け継ぐとともに、
昭和48(1973)年、朝地町は朝倉の遺志を受け継ぐとともに、
その業績を顕彰するため記念館の建設を計画しました。ところが、
折からのオイルショックの経済不況により計画は中断を余儀なくされました。
しかし、町は将来計画が再開することを前提に、梅園の造成や朝倉作品の収集を行います。
昭和61(1986)年にそれまで中断していた記念館の建設計画を再開。
昭和61(1986)年にそれまで中断していた記念館の建設計画を再開。
設計は朝倉の教え子であった清家 清氏、造園設計は彫刻家の澄川喜一氏、展示設計は娘の朝倉 摂氏が
それぞれ担当。
こうして「愛の園生 朝倉文夫記念公園」は平成3(1991)年3月28日に開園しました。
朝倉の夢は、計画以来30年を経て、ゆかりの方々や多くの人々の協力を得てやっと実現したのです。
朝倉の夢は、計画以来30年を経て、ゆかりの方々や多くの人々の協力を得てやっと実現したのです。
朝倉文夫記念館
所在地: 〒879-6224 大分県豊後大野市朝地町池田1587-11
電話: 0974-72-1300
所在地: 〒879-6224 大分県豊後大野市朝地町池田1587-11
電話: 0974-72-1300
帰り道の田園風景、ここでも棚田が広がっていた。
夕焼け [風景]
久し振りに夕焼け空が広がった。
台風20号の前触れの雲が焼けているのだろうか?
時折強い風も吹いてくる。
空だけでなく、辺り一面が赤く輝いている。
最近なかった夕暮れ時の風景である。
吉田山の夕焼け
大文字山の上にも
夕焼け空を眺めていると、なぜだか郷愁にのような気分に包まれる。
「山の彼方の 空遠く」ではないが、心が空に解き放たれるような気がするのだ。
大文字 [京都の風物]
大文字-五山の送り火
8月16日午後8時に五山の送り火の先頭を切って「大文字」が点火された。
送り火は、この大文字の点火の後、5分おきに西に向かって次々と
送り火が点火されて、京の夜空を照らします。
京の夏の夜空を焦がす京都の名物行事・伝統行事。
葵祭・祇園祭・時代祭とともに京都四大行事の一つとされる。
「大文字」(京都市左京区浄土寺・大文字山(如意ヶ嶽)。20時00分点火)
「松ヶ崎妙法」(京都市左京区松ヶ崎・西山及び東山。20時05分点火)
「舟形万灯籠」(京都市北区西賀茂・船山。20時10分点火)
「左大文字」(京都市北区大北山・左大文字山。20時15分点火)
「鳥居形松明」(京都市右京区嵯峨鳥居本・曼陀羅山。20時20分点火)
以上の五山で炎が上がり、
お精霊(しょらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされる。
お盆も今日で終わりです。
また、日常が帰ってくるように思えます。
点火時の大文字、左側の青い点は、ドローンのようです。
煙がすごい!
火床をアップで見ると多くの人がいるのがわかります。
火が消えると、残ったたきぎを皆さんがそれぞれ持って帰ります。
この炭火をわざわざ得るために山に登ってくる人もいます。
家に持ち帰って、厄除けとします。
この山は一般に大文字山と呼ばれていますが、
本当は東山三十六峰のひとつ「如意が嶽」(にょいがだけ)です。
最後になりましたが、残暑お見舞い申し上げます!
故郷の山河-6 [故郷]
生家の近所散策
私の生家は、典型的な山深い山村です。
昔から路線バスもない山間の集落にありました。
それでも、村の中心部に近く、小学校や役場、郵便局、駐在所
そして酒屋さん、雑貨屋さんも、わりに近くにありました。
小学校の同級生は、約3kmもの山道を通ってくる者もいました。
雨の日も、雪の日も、台風がきても、通っていました。
現在の町の小学生には考えられないような有り様でした。
けれども、風光明媚な山村でした。
平地がないので、小学校は山の頂上を削って建てられていました。
校庭からは、谷間に連なる棚田と集落、そして雑木林が眺められた。
いまは、その小学校も廃校となり、ソーラーが設置されています。
昔を懐かしみながらの散策です。
耕して天に至るという表現がありますが、ここからの眺めは、
耕して谷間に下るという感じです。
下の画面の中央あたりに青く見えるのは、川面です。
野辺には、ダリアの花が咲いていました。
花畑ではなく道辺です。自然に咲いたのでしょう。
川辺にわずかにある平地は、みんな水田、
その真ん中に神社がありました。
昔は、秋には、お祭りで神楽が奉納されていました。
小学生時代よく水遊びに友達と夏休みにはやってきた緒方川
石橋も有り、釣り人がいました。
川から自宅へ帰る道は、長い坂道を歩かなければなりませんでした。
水田には、サギが遊んでいました。
子供の頃には、見かけない風景です。
昔は、サギも来ない(笑)山奥でした。
お城のような屋根構えの民家です。
庭には、タチアオイが咲いていました。
振り返れば棚田!
道ばたに、トラックターが、昼寝
猫も散策中
人恋しそうに寄ってきました。
というか「おまえ誰や!」って感じだったけど・・・・・・
静かな、静かな故郷です。
故郷の山河-5 [故郷]
軸丸の棚田
道の駅「原尻の滝」から車で10分ほどの山手に入っていくと軸丸という地域に至る。
ここは、日本の棚田100選の一つに選ばれた緒方町軸丸の棚田にあえる。
美しい棚田であるだけでなく、採れるお米も美味しいのだ。
この地域は、水路が作られるまでは、稲作が出来ずに厳しい生活を強いられていたという。
また、ここには神楽座があり、農家の人たちが今日に伝えている。
私が子供の頃は「軸丸神楽」と呼んでいたが、いまは緒方神楽と呼んでるようだ。
御嶽流の神楽である。
棚田の尽きる高台には、地蔵さんが、草花に囲まれて静かに鎮座していた。
帰り道、偶然に田の草取りに励んでいる人を見かけた。
声をかけると愛想良く応えてくれた。
それで、なんだか私も故郷に帰った気分が高まった。
超のどかな田園地域である。